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カミュ『ペスト』抜粋

「ところで、さっきの返事をうかがってませんが。あなたはよく考えてごらんになりましたか?」

 タルーは肘掛椅子のなかでちょっとくつろいだ姿勢になり、頭を明りのなかへ突き出した。

「神を信じていますか、あなたは?」

 質問はまた自然な調子でなされた。しかし今度は、リウーはちょっとためらった。

「信じていません。しかし、それはいったいどういうことか。私は暗夜のなかにいる。そうしてそのなかでなんとかしてはっきり見きわめようと努めているのです。もうとっくの昔に、私はそんなことを別に変ったことだとは思わなくなっていたのですがね」

「つまりそこじゃありませんか、あなたとパヌルーの違いは?」

「そうは思いませんね。パヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないんです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、私と同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当をするでしょう」

 リウーは立ち上がり、その顔は今は陰のなかにはいっていた。

「やめましょう、この話は」と彼はいった。「なにしろ、あなたが答えようとなさらないんだから」

タルーは椅子から動こうとせず、ほほえんだ。

「答えのかわりに、一つ質問をしてもいいですか?」

 今度は、医師のほうがほほえんだー

「謎がお好きですね」と彼はいった。「まあ、承りましょう」

「つまり、こういうことです」とタルーはいった。「なぜ、あなた自身は、そんなに献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに?あなたの答えによって、あるいは私も答えられるようになるかもしれないんですがね」

 陰の中から出ようとはせず、医師は、それはすでに答えたことで、もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、といった。しかし、世に何びとも、たといそれを信じていると信じているパヌルーといえども、かかる種類の神を信じてはいないのであって、その証拠には何びとも完全に自分をうち任せてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被造世界と戦うことによって、真理の路上にあると信じているのだ。

「ははあ、そうするとあなたはそういうふうに考えていられるわけですね、ご自分の職業について?」とタルーはいった。

「ええ、まあ大体」とまた明りのなかへ戻って来ながら、医師は答えた。

 タルーがそっと口笛を吹くと、医師はその顔を見つめた。

「なるほど」と彼はいった。「あなたはそうお思いでしょう、それにはよっぽどの傲慢さが必要だ、と。しかし、僕は必要なだけの傲慢さをもっているにすぎないんですよ、まったく。この先、何が待っているか、こういうすべてのことのあとで何が起こるか、僕は知りません。さしあたり、大勢の病人があり、それをなおしてやらねばならないんです。そのあとで、彼らも反省するでしょうし、僕もそうするでしょう。しかし、最も急を要することは、彼らをなおしてやることです。僕は自分としてできるだけ彼らを守ってやる、ただそれだけです」

「何ものに対して守るんです、それは?」

 リウーは窓のほうを振り返った。遠くに海が、視界を限る線のひときわ濃い暗さによってそれと判じられた。彼はただ疲労だけを感じながら、しかも同時に、この風変りな、しかしまるで兄弟のような気のする人物に、もうちょっとで心を打ち明けてみたいという、突然の、不条理な欲望と戦っていた。

「全然わからない、それは。まったく、僕には全然わからない。僕がこの職業にはいったときは、ただ抽象的にそうしたんです、ある意味からいえば。つまり、その必要があったから、これも世間並みの一つの地位で、若い連中が考えるうちの一つだからというわけです。あるいはまた、それが僕のような労働者の息子には特別困難な道だったからかもしれません。そうして、やがて、死ぬところを見なければならなかった。知っていますか、どうしても死にたがらない人たちがあることを?聞いたことがありますかーー一人の女が死のうとする瞬間に《いや、いや、死ぬのはいや!》と叫ぶ声を?僕は聞いたんです。そうして、自分はそういうことに慣れっこにはなれないと、そのとき気がついたんです。僕は、そのころ若かったし、自分の嫌悪は世界の秩序そのものに向けられていると思っていました。その後、僕ももっと謙譲な気持ちにないました。ただしかし、僕は相変わらず、死ぬところを見ることには慣れっこになれないんです。僕はそれ以上はなんにも知りません。しかし、結局……」

 リウーは口をつぐみ、再び腰を下ろした。彼は口のなかがからからになっているのを感じた。

「結局?」とタルーが静かにいった。

「結局……」と、医師は言葉を続け、そして、なおためらいながら、じいっとタルーの顔を見つめた。「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に眼をむけたりしないで」

「なるほど」と、タルーはうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」

 リウーは暗い気持ちになったようであった。

「常にね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」

「確かに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとって果してどういうものになるか」

「ええ、そうです」と、リウーはいった。「際限なく続く敗北です」

 タルーはいっときじっと医師の顔を見つめ、それから立ち上ると、重々しい足どりで戸口のほうへ歩きだした。で、リウーもそのあとを追った。彼がすでに追いついたとき、タルーはじっと足もとを見つめている様子であったが、彼にこういったーー

「誰が教えてくれたんです、そういういろんなことを?」

 答えは即座に返ってきたーー

「貧乏がね」

 

引用文献:カミュ『ペスト』 新潮社 昭和四十四年十月三十日 p.184